【1109】消波ブロック
昨日、購入したpanpanya『蟹に誘われて』を読んでいたら、色んなテトラポッド(正確にはテトラポッドとは最も一般的な上の写真で言えば右の上の形の消波ブロックの商品名であって、違う形の消波ブロックはまた別の名前らしい)が集められた神戸にある公園の話があった(検索してみたが、それっぽい公園は見つからなかった)。普段は海辺にあるテトラポッドが陸地に置かれると、その奇怪な造型に驚かされる。
消波ブロックとは、名前の通り波のエネルギーを拡散させるために護岸に設けられる構造物だ。とはいえ、ただそれだけの構造物が密集している風景はいつみてもある意味異常だし、壮観だとも思える。しかし、消波ブロックが作り出す景観をアレックス・カーは自著『犬と鬼』で、日本の公共事業がもたらした醜い景観の一つだとした。
彼の言いたいことは分かるが、私たちはもはやそんな風に思ってはいないだろう。テトラポッドが見えると、海の近くにきたのだと高揚感を持つし、そこではもはや海辺にテトラポッドはセットだという意識が自分の中に染み込みきっているからだ。時間というものは予期せぬ結果を生みだす。
美しいとまでは言わないまでも、テトラポッドの形はどこかワクワクさせるものを持っている。これは工場などのように機能の純粋なる形式を表しているからだろうか。
同じようにアレックス・カーが批判していた電線も会田誠の絵に見られるように今や日本の風景の一部として見られている。そういえば、無電柱化を啓発しようと制作した赤富士に電線を重ねたイラストが逆にかっこいいという皮肉なニュースもあった。(http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/13/mudenchuka-project_n_5581680.html)
私たちは美しい醜いをどのように判断しているのだろうかとつくづく思う。このように過去に醜いと批判されていたものがいつしか生活に浸透していって、美しいとは言わないまでもある種のノスタルジックな感情をもたらすものになることもある。美しい醜いという美的な価値は絶対的なものではなく相対的なものだ。だから人は、美しいものをつくる、というよりは、何が美しいのかということに目を向けるべきでもあるのではないだろうか。
by foolproof-koji
| 2014-11-09 19:40
| 備忘録的